ご存知辰ちゃんの日々是ゴージャスな日記


by yowatarijouzu
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京都大学の東郷雄二先生が、
御自身のホームページに連載されている 「今週の短歌」 に、
私を取り上げてくださっている (3月19日)。
これについて先生に、反論を含む御礼のお手紙を、
メールに添付して今日お届けしたが、
ここにその全文を公開しておきたい。
長い手紙だが、御一読いただければ幸いである。

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April 6, 2007

東郷雄二様

 初めてお手紙 (e-mailですが) を差し上げます。東郷先生がインターネット上に連載していらっしゃる 「今週の短歌」 の、私も愛読者のひとりなんですよ! 3月19日には、 「特異な作家」 であるにもかかわらず私をお取り上げいただき、大変に嬉しく存じました。年度末のなにやかやで御挨拶申し上げるのが遅くなりましたが、ともかく深く御礼申し上げます。厳しい御指摘の数々は、もちろん肝に銘ずるつもりです。ありがとうございました。

 とは言え、何点か反論を申し上げておきたい箇所が存在するのも、残念ながら事実ではありました。以下に、文章の流れに順い、ちょっと指摘させていただきたいと存じます。

 1. タイトルの代りに引用なさっている拙作ですが、なぜここで畳まれたのでしょうか? 私は、一首の短歌は一行に表記すべきであり、一行の字数に制限がある場合にのみ機械的に畳むべきだと考えています。百歩も千歩も譲って、この一首をもし無理に畳んで表記するとしたら、 「忘却は」 の前でそれは行われるべきではないでしょうか? タイトル代りに引用された短歌のすべてを第三句と第四句の間で畳むという方針をお持ちだとは、葛原妙子さんや辺見じゅんさんの回を拝見すれば言えないようです (そのような方針を厳格に適用したら、本文中に引用していただいた 「空港も」 と始まる拙作など、 「全人類」 を 「全/人類」 という風に切らなければならなくなってしまいます!) から、拙作の場合も畳まずに一行に表記していただきたかったと思いました。

 2. 些細なことですが、文中引用の五首目 「なにもかも……」 の最後の 「長ダッシュ」 は、全角2文字分必要です。作者としてはあまり些細なことではありません。

 3. 拙著 『現代詩としての短歌』 が提起している問題を、東郷先生は五つ挙げていらっしゃいますが、その五つ目の、 「短歌は一行の詩である。詩は朗読されるべきものであり、短歌もまた朗読されるべきである。」 という問題。たしかに私はあの本に、 「少なくとも私たちの時代の短歌は、言葉の本来の意味において最高度に〈詩〉であることを要請されているのだ。/となると必然的に、短歌は朗読されなければならない、ということになる。なぜなら詩はそもそも、朗読に耐えるものでなければならないからだ。」 とは書きましたが、絶対に朗読しなければならないとは書いていなかったはずです。要は、朗読を要請されたら朗読すべきだ、ということですね。 短歌の朗読会などほとんど行われていなかった時代に書いた文章なので、やや表現が強めになっていたか、とは思いますが……。
 実際、私には朗読を前提としない作品がいくつもあります。 『全人類が老いた夜』 では、例えば 「雲隠」 がそうですね。それよりなにより、私が詩誌 「るしおる」 と同人誌 「三蔵2」 に継続的に発表してきた長編連作 (総題未定。現時点で12章分が既発表) が、単行本としての出版はまだ数年先のことになりますが、まさにそのような作品の代表例です。もちろん、要請に応えてその内の数章を朗読はいたしました。
 そもそも、東郷先生が挙げられた五つの問題には、すべて 「短歌は詩である」 という前提を付けていただかなければならないのかもしれません。たしかに私は 「短歌は一行の詩である」 と書きましたが、その内の 「一行の」 という部分は、この書簡の 1. に書いたような短歌の形態的特質を言っているに過ぎないのであって、私は連作を奨めているわけですから、 「一行の」 という部分は絶対的な規定ではないということになりましょう。 「短歌は詩である。だからこうこうであるべきだ」 というのが私の論理です。したがって、後段に登場する 「はからずも」「暴露」 された 「石井の短歌観」 というものにも、いささかの修正を加えていただければと思いました。

 4. ずっと後ろの方の、 「音楽における (中略) 記号は演奏者のためのものであり、聴衆のためのものではない。短歌の読者は演奏者ではなく聴衆の立場にある。だから演奏指定記号は聴衆の音楽の受容の妨げになるのである」 という部分。短歌が朗読される場合 (東郷先生はあまりお好きではないようですが) には、たしかにそうだと言えるかもしれませんね。しかし短歌を読者が読む (朗読を聴くのではなく) 場合、音読するにしても黙読するにしても、読者は音楽における演奏家と聴衆とを兼ねるのであって、さまざまな記号による指定は有用である、少なくとも無意味ではない、と言えるのではないでしょうか? そもそも音楽を楽譜を見ながら聴く聴衆は少なくないわけで、私も自宅ではCDをしばしばそのようにして聴いていますが、楽譜の記号は音楽の受容の助けになりこそすれ妨げになったことはただの一度もありません。なお、音楽における記号が絶対的なものではないことは、演奏家が楽譜に記入されているすべての記号に忠実であるなんてことは実際問題として滅多にある話ではない、ベートーヴェンが楽譜に書き込んだメトロノームによる速度指定のように通常無視される記号も少なくない、といったことからも明らかでしょう。短歌の読者にも、記号を独自に解釈したり無視したりする自由が、当然あるのです。

 5. 一番最後に引用していただいた拙作ですが、これは 『海の空虚』(不識書院、2001年) に収録した連作 「シーザーの死に立ち会つて」 に含まれる一首で、この連作は、RSCが上演した平戸間の観客も演技に加わるという特異なシステムによる 『ジュリアス・シーザー』 を観た (参加した?) 体験を作品に仕立てたものです。したがってこの一首は私の作品の中でも極めて特殊なものである、ということには、注意を喚起させていただきたいと思いました。ついでに言えば、文章の流れから 『現代詩としての短歌』 からの引用が多くなったのは已むを得なかったと理解はいたしますものの、やはり 『全人類が老いた夜』 収載の短歌を、できれば連作単位で、より多く御批評いただきたかったとも思いました。

 6. 最後から二つ目のパラグラフ……。ここが最大の問題だと思います。反論したい誘惑に駆られる点が二つありますが、まずその一つ目。 「石井は伝統的な短歌のあり方を痛烈に批判し、現代短歌は世界的文脈のなかで考えなくてはならないと説く。その主張はもっともなことである」 とお書きになったあと、続けて 「しかし、短歌形式拡張の可能性を実験する時に石井が用いる手法は、20世紀において現代詩や現代音楽で試みられた手法の借用である」 と書いていらっしゃいます。 「しかし」 という接続詞によって 「石井が用いる手法」 を否定なさっているわけですが、過去に他ジャンルで試みられた手法を短歌で実験してみるのは、既に短歌で試みられ成功しているというのならまだしも、果して否定されるべきことなのでしょうか? むしろ、誰かが実験してみなければならないことなのではないでしょうか? そしてその実験は、成功するか失敗するかには関係なく、少なくとも否定されてはならないことなのではないでしょうか?
 これはお願いですが、東郷先生には、他ジャンルに前例のない、したがって他ジャンルからの借用ではない短歌固有の手法によって短歌形式が拡張された実例を、近現代短歌史からいくつか挙げていただければと思います。不勉強な私には、思い浮べることができませんでした。例えば正岡子規の 「写生」 という主張だって、西洋絵画からの借用であったわけですしね。

 7. 二つ目の問題は、6. で取り上げた文章に続くパラグラフの後半、 「そして現代詩がその試みの果てに吃音的な袋小路状況に陥ったこと、また現代音楽が調生 (調性の誤変換ですね?) を解体して無調音楽となりいつのまにか溶解したことを見ると、果して石井の試みが豊かな果実を生み出すのかどうか、考え込んでしまうのである」 という結論 (最終パラグラフは補足でしょうから) の部分にあります。本当に現代詩は 「吃音的な袋小路に陥っ」 ているのでしょうか? 本当に現代音楽は 「いつのまにか溶解し」 てしまったのでしょうか? 断じて 「否!」 と言わざるをえません。東郷先生がどの程度、あるいはどのような現代詩や現代音楽に接していらっしゃるのか存じませんが、少なくとも私の接している現代詩も現代音楽も、感嘆に値する豊かな成果を挙げ続けているように思われます。吉増剛造さんや関口涼子さんあたりをはじめとする実験的な詩人を含めた数多くの優れた詩人たちが、充実した作品を次々に発表している日本語の詩について一望するだけで、現代詩が 「吃音的な袋小路に陥っ」 てはいないことは明らかでしょう。現代音楽についても同様です。例えば私は、サントリーホールのサマーフェスティバルを聴きに行くのを毎年の楽しみにしていますが、あそこでまとめて何曲も演奏される、数年以内に世界のどこかで初演され好評を博した新作 (もちろんどの曲も日本初演ということになります。また、このフェスティバルでは世界初演の曲も披露されます) には、その多くにいつも感心させられていますし、さらにその内の何曲かからは、バッハやモーツァルトを聴くのに劣らない真の音楽的愉悦を味わっても来たのです。そうそう、昨年末にはメトロポリタンオペラにタン・ドゥンの新作オペラ 『始皇帝』 のワールドプレミエ (と言っても、私が聞いたのはその3日目の公演です) を聴きに行って来ましたが、プラシド・ドミンゴがタイトルロールを歌ったということがあったにしても、ともかく大変な大入りでしたし、カーテンコールもそれは盛大なものでした。タン・ドゥンの音楽そのものも実に実験的かつ個性的で美しく、この出来立ての 「現代音楽」 は世界中のオペラハウスで繰り返し上演されることになるに違いないと思いもしたのでした。現代音楽は、 「調性を解体し」 た果てに 「いつのまにか溶解し」 てしまったのではなく、 「調性を解体し」 た後もさまざまな実験に挑戦し続け、繰り返し聴くに値する名作・傑作を生み出し続けているのです。
 世界中の現代詩人と世界中の現代音楽の作曲家に成り代って、私は東郷先生に強く抗議したいと思います。

 8. 最後の補足のパラグラフにもひと言。 「石井は評論の冒頭に必ずと言っていいほど 『短歌は一行の詩である』 と繰り返している」 と書いていらっしゃいますが、私が 「短歌は一行の詩である」 と書き起しているのは、全10章中3章に過ぎません。10分の3と 「必ずと言っていいほど」 との間には、大きな開きがあると思うのですが……。

 以上、あれこれ反論を書き連ねさせていただきました。これも、東郷先生の御批評が魅力的で意味深いものであるということの証左でしょう。ただ、 「石井の主張の全部を検討することはできない」 などとおっしゃらず、もっと多くの方向から私の作品や主張を考察していただきたかったと思いました。 「今週の短歌」 で複数回論じられた作家は今のところまだ存在しないようですが、続編をお書きになってもよいわけでしょう? 今年出版する予定の新しい歌集 (『全人類が老いた夜』 に続く一冊で、序数歌集という考え方を取り入れれば私の第6½歌集ということになります) や、前述の未完の長編連作 (Work in Progress ということになりましょうか?) を題材に、是非また私を論じてくださることを、切に切に希望いたします。

 ということで、ともかく今後とも、どうぞよろしく!

石井辰彦
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by yowatarijouzu | 2007-04-06 23:59