東郷雄二先生の御返信に対するお答えの手紙を、
メールに添付して今日お届けした。
ここにその全文を公開しておきたい。
長い手紙だが、御一読いただければ幸いである。
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May 15, 2007
東郷雄二様
御叮嚀な御返信を頂戴し、恐縮いたしました。ありがとうございます。東郷先生がホームページに御掲載のアドレス宛、4月6日に確かに送信し、不着のサインも出なかったので安心しておりましたが、どうしたのでしょう? インターネットの世界では(でも?)、時々不可解な事が起ります。
それにしても、「素人短歌評論」とはまた、随分御謙遜ですね! 「自分では実作をしない『純粋読者』」の評論だからこそ、実作者の意見とは一線を画した重い意味を持っているのではないでしょうか? 少なくとも私は、短歌実作者よりむしろ「純粋読者」にこそ、自作を読んでほしいと望んでいます。また、東郷先生が「まったく権威的な立場にな」いなどとは、断じて言えないとも思います。東郷先生は、言語科学を講じられる京都大学大学院の教授というとんでもなく「権威的な立場」におられ、しかも「今週の短歌」への入口は、教授としての東郷先生のホームページに、東郷教授のシラバスへの入口と並べて表示されているわけですから……。私は東郷先生の「今週の短歌」を、「単なる一読者の感想」などと軽く考えることはできません。
それから、東郷先生は、私が使用している各種の記号、先生が「今週の短歌」で書かれた文章をそのまま引用すれば「通常の句読点だけでなく、丸パーレンや中黒や疑問符・感嘆符、三点リーダーや長ダッシやルビなど、考えつく限りの印刷記号」が、「コード化されていな」いので「書いた人にしか意味を持たないと言える」とおっしゃいますが、果してそうなのでしょうか? 確かに、楽譜に用いられる各種の記号や御専門のフランス語を含む欧米諸言語のパンクチュエーションなどと比較すればかなり曖昧だとは言えるのかも知れませんが、句読点をはじめとする日本語の各種の記号(これを「印刷記号」と言い切ることにも、私は違和感を覚えます。手書きでも用いる訳ですから……)は、その記号を見ればどういう意味を持つか読者が理解することがほぼ可能である以上、コード化されていると考えるべきなのではないでしょうか? 東郷先生も句読点や括弧などを、読者に読まれる「に際して生み出す効果を一定の範囲で保証でき」ていると考えておられるからこそ、当り前のこととして使用されているはずです。もし東郷先生の文章を「……だけでなく丸 パーレンや中 黒や疑問 符感嘆 符三点 リーダー……」といった具合に、句読点に頓着せず続けたり切ったりして読む人がいたら、その人には句読点が意味を持っていないと言えるのでしょうが、大抵の場合、読者は句読点を意識して読んでくれるはずですよね。それはつまり、句読点がコード化されている、共有化されているということに他ならないのではないでしょうか? 句読点以外の諸記号についても、程度の差はあれ同じ事が言えると思います。したがって私が使用している各種の記号は、日本語の表現要素としてコード化されており、「書いた人にしか意味を待たない」ものではないと言えるのではないでしょうか? いや、音楽の記号は誰もが理解できるわけではありません(現代音楽の楽譜には、しばしば特殊な記号のグロッサリーが付いているほどですからね)が、日本語の記号は日本語を用いるある年齢以上の人間のほとんどが理解できるわけですから、音楽の記号よりはるかに広範囲の発信・受信者に対してコード化されていると言えるのではないでしょうか? ちなみに私は、携帯電話メールで使われる絵文字のようなコード化の度合の低い記号は、極力使用しないよう心掛けております。
東郷先生が現代詩や現代音楽を「けっこう好き」ではいらっしゃらない御様子なのは、とても残念なことです。マーク・ロスコの後期の作品(初期の作品は実物を見た記憶がありません)は、アメリカの美術館などで発見するとその前に立ち止るぐらいには私も「けっこう好き」ではあるのですが、ロスコの絵画程度に「大衆に浸透するほどの拡がりと影響力を持つ作品」は、現代詩にも現代音楽にも山ほどあると思います。ロスコは1903年生れだそうですが、同世代の詩人では例えば、ハート・クレーン(1899-1932)、パブロ・ネルーダ(1904-1973)、チャールズ・オルソン(1910-1970)あたりを思い浮かべてみてください。クレーンの『橋』、ネルーダの『マチュピチュの頂』、オルソンの『マクシマス・ポエムズ』は、「大衆に浸透するほどの拡がりと影響力を持つ」という点でいずれもロスコの作品に劣らないかそれ以上だと言えるはずです。ロスコ世代の音楽家(作曲家)としては、ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)、オリヴィエ・メシアン(1908-1992)、ジョン・ケージ(1912-1992)を挙げれば十分でしょう。彼らの作品は今や、現代音楽ではなく「新しい古典音楽」と呼ぶ方が相応しくさえ思われます。いずれにしても、あまり詳しくはない分野を引き合いに出しての御批評は、いささかアンフェアだと言わざるを得ないと考えます。
それから、これは改めてのお願いですが、前回のお手紙(メール)で東郷先生にお教えを請いながらまだお答えいただいていない質問に、是非ともお答えいただきたいのです。「他ジャンルに前例のない、したがって他ジャンルからの借用ではない短歌固有の手法によって短歌形式が拡張された実例を、近現代短歌史からいくつか挙げていただきたい」というのが、私の質問でした。実作者には判らないことも「純粋読者」である東郷先生にはお判りになるかもしれません。どうぞよろしくお願い申し上げます。
以上、くだくだしい御返事になってしまいましたが、御容赦ください。「今週の短歌」がお終いになってしまったことを、私は大変残念に思っております。是非また機会をお作りいただき、「続・今週の短歌」を連載していただきますよう……。その時には、「塚本邦雄や岡井隆や山中智恵子などの大歌人を取り上げなかったのは、ひとえに当方の力不足の故である。塚本や岡井を論じようなどと思ったら、半年間休職でもして専念しなければ無理な相談だ」などとおっしゃらず(この御発言は、「これまで批評した200名近い歌人はいずれも大歌人ではない」という意味の御批評なのだと思いますが)、もっと採り上げる歌人の範囲を広げていただければと思います。
ということで、ともかく今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。そして、これからも意義深い意見の交換ができることを、心から希望いたします。
石井辰彦